酒井家庄内入部400年 さかいけしょうないにゅうぶ400ねん

鶴岡は今もなお、殿さまが住み続けているまち。
令和4年(2022)、庄内藩主酒井家が庄内へ入部されて400年が経ちます。入部から現在に至るまで、酒井家は鶴岡に住み続け、その間ずっと領民・市民に「殿はん(さま)」と慕われ続けています。
お濠や土塁は残っていてもお城は残っていない鶴岡。しかし、訪れた人の多くは「城下町らしい落ち着いたまち」を体感し、「今も殿さまが暮らしています」とお伝えするとなるほどと納得されます。
 
酒井家の歴史
酒井家の庄内入部の歴史は、3代忠勝の代に信州松代(長野県)より出羽国庄内13万8千石の初代藩主として元和8年(1622)に入部されたことから始まります。
酒井家は徳川家とゆかりある家系で、新田源氏を祖とし松平親氏を父とする兄弟家であり、酒井家初代忠次は、徳川家康の義理の叔父でもあり、家康第一の功臣として徳川四天王筆頭と称されました。
3代忠勝は、領民の安居楽業を第一として、大々的に領内の検地を行い、その寛大な測量に百姓達は感謝し、測量に使った間竿を分け合って、お祀りしたそう。村々から遠く離れた飛島まで検地を行い、その時に持ち帰ったタブノキの苗は、現在市内で堂々とした巨木となり県の天然記念樹になっています。
 
藩校致道館
江戸後期の9代忠徳は「藩校致道館」を創設。藩の風紀を正し、藩政を担う人材育成のため、「個性伸長」「自学自習」を旨として、荻生徂徠の「徂徠学」を教学とし、先進的な教育が行われました。その教育精神は、鶴岡の教育の原点になっているとともに、これまで地域の教育風土を形づくってきたのです。現在では、東北地方に唯一現存する藩校建造物であり、国指定史跡に指定されています。
 
天保おすわり事件
10代忠器の天保11年(1840)には幕府より庄内藩酒井を越後長岡へ、川越藩松平を出羽庄内へ、長岡藩牧野を武蔵川越へ、三方領知替えの転付命令が出されました。しかし、酒井家を慕う庄内藩の領民はこれを阻止せんと「天保おすわり事件」と呼ばれる大規模な反対運動を起こし、翌年7月には転封撤回が正式決定されます。
ここまで酒井家が慕われた理由として、天保4年(1833)の大凶作時には貯蔵していた米の配給を実施し、一人の餓死者も出さなかったなど、藩の手厚い対応への領民の高い信頼があったことが伺えます。
幕府の命令が撤回されたのは前代未聞の出来事、それは幕府権力の弱体化を象徴するものでした。
 
戊辰戦争
幕末、江戸市中取締を命じられていた庄内藩は幕命により薩摩藩邸の焼き討ちを実行したこともあり、会津藩とともに朝敵とされ、戊辰戦争に巻き込まれます。庄内藩は団結力も強く、酒田の豪商本間家の財力で近代兵器も有し、連戦連勝の強さを誇りました。しかし、天下の形勢には逆らえず、明治元年(1868)9月に降伏します。重い処罰を覚悟した13代忠篤に対し、新政府軍が下したのはきわめて寛大な措置でした。戦後の交渉を担った菅実秀はこれが西郷の指示であったことを知り、その崇高な理念に感銘を受けます。今後指導を仰ぐべきは西郷と確信し、翌明治3年から忠篤の旧藩士70余名を伴う鹿児島訪問など交流が始まります。
西郷の没後、明治22年(1889)に西郷の賊名が解かれると、旧藩士達は西郷から学んだことをまとめ「南洲翁遺訓」を編み、西郷の教えを世に残しました。
 
サムライゆかりのシルク
 戊辰戦争で敗北した旧庄内藩は、明治5年(1872)旧藩主ら3,000名が刀を鍬に持ち替え、当時輸出の花形産業であった生糸の産業を興し、国に報いることで賊名をそそごうと原野の開拓に挑みます。2年で開墾した土地は約311ha。その後、桑の栽培、養蚕、蚕種、製糸を開始します。
この困難な事業は旧庄内藩の行く末を案じた菅が構想し、西郷にも相談しました。西郷は困難の連続に挑む旧藩士に「気節凌霜天地知」という言葉で激励し、西郷の勧めでドイツ留学した旧藩主忠篤、忠宝の存在も開墾の大きな支えでした。西郷没後明治12年(1879)に留学から日本へ戻った両名は鶴岡で絹産業など地域振興に力を注ぎます。
こうして鶴岡は明治以降も殿さまがともに暮らす、全国でも稀有な城下町として発展してきました。

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