足をのばして

>> 鶴岡公園周辺の地図

城下の面影

むかし、一般庶民のお城への立ち入りは制限されていて、お城と外部との出入口に木戸がつけられていました(木戸口)。全部で11カ所あり、漢字にすると「十一口」で吉の字になるのでめでたいとされていました。夜間ここを通る時は通行手形のような挑灯札(ちょうちんふだ)をみせて通してもらっていたそうです。鶴岡公園から少し足をのばして、市内のあちこちを歩いていると、こうした木戸口跡を示す碑や旧町名とその由来を書いた看板などをみつけることができます。

たとえば、現在の公園の所在地名にもなっている馬場町は、もともとは家中町(かちゅうまち)とよばれていましたが、乗馬を練習する馬場があったことからこの名がつきました。家老級の大きなお屋敷があったところです。さらに家中新町(かちゅうしんまち)は、庄内藩の家中(中級以上のさむらい)の住居として新たに作られたところで、今も家々の門がまえや庭のつくりに武家屋敷の面影を感じさせます。

鍛冶町木戸口跡にある大督寺(だいとくじ)は、庄内藩酒井家にゆかりがある。境内には、「学校給食発祥の地」の記念碑があります。明治の頃、鶴岡の各寺院の和尚さんたちが、恵まれない家庭の子供たちのために、このお寺のなかに学校を作り お弁当を出したことから、学校給食の始まりといわれています。形をかえながら、昭和20年まで続けられました。

このほかにも「市(いち)」がたった日が町名になっていたり、住んでいた人たちの職業が名前になっていたところもありました。一部を残し新町名になった今も、お年寄りの会話やバス停などで昔なつかしい町名が使われています。

 内川界隈 田沢稲舟の胸像の写真

鶴岡市街地をゆっくりと流れる内川。古くから市民の川として親しまれ、「海坂もの」と呼ばれる藤沢周平の小説に登場する「五間川」のモデルとなった川と言われています。しだれ柳が風にそよぎ、朱ぬりの橋「三雪橋」(みゆきばし)は小京都の趣を感じさせます。

三雪橋と千歳橋の間の河畔には、明治時代、樋口一葉につぐ女流作家として期待されるも23歳の若さで亡くなった田沢稲舟の胸像と文学碑があります。この場所はちょうど彼女の生家前にあたります。

このあたりの桜並木は、鶴岡公園のにぎわいとはまた一つ趣を異にする味わいがあります。また8月の旧盆(荘内大祭)には灯籠流しも行われます。鶴岡御城下絵図(鶴園橋)など、所々に、そぞろ歩きの楽しくなる案内等がありますので、ゆっくりと眺めながら「城下町・鶴岡」を散歩してみてください。

 「三雪橋」の名前の由来

三雪橋と鳥海山の写真 鶴岡を代表する風景の1つ朱塗りの橋「三雪橋」。昔は三日町橋とよばれていました。この橋からながめる鳥海山、月山、金峰山の3つの山の雪が、とても美しかったことから、明治9年、当時の県令(県知事)三島通庸が名づけたといわれています。
この橋の歴史は古く、慶長13年(1608年)、時の領主 最上義光が作ったもので、当時この付近には、この橋しかなったそうです。1618年(元和4年)、最上義俊によってつけられた擬宝珠(ぎぼし)が、鶴岡市立図書館2階の郷土資料室に展示されています。
 
藻刈り舟の写真
内川 夏の風物「藻刈り舟」。長い歴史をもつ三雪橋の姿とあいまって風情を感じるひとコマ。内川では時折、カルガモやアヒル、白サギの姿もみかけられる。
奥の細道 内川乗船地跡の写真
「めづらしや 山を出羽(いでは)の 初茄子(なすび)」の句を残し、“奥の細道”行脚をつづける松尾芭蕉も内川の流れとともに酒田へと向かった。
内川ほっとパークの写真
開運橋から大泉橋にかけて整備されている「内川ほっとパーク(旧内川公園)」。 桜やヒマラヤ杉の並木が見事。

鶴岡市まちかど博物館 「旧鶴岡町消防組第八部消防ポンプ庫」

旧消防ポンプ庫の写真 内川ほっとパークにある赤レンガの公衆トイレ。元々は、消防組第八部のポンプ庫として、大正9年に蒸気ポンプを配備するために、大泉橋のたもとに建てられたものです。蒸気ポンプの導入は、放水により消火する近代消防の幕開けとなり、赤煉瓦のポンプ庫はその象徴となりました。同じレンガ造りの消防ポンプ小屋は、このほかに鶴園橋と神楽橋のたもとにもありましたが、現存するのはこの一棟だけです。平成12年には国登録有形文化財に指定されました。また、鶴岡市まちかど博物館として、当時の消防資料、写真なども展示しています。  

鶴岡公園周辺の地図

鶴岡公園の概要荘内神社鶴ヶ岡城の面影石碑めぐり疎林広場四季折々