石碑めぐり

大宝館と中ノ橋跡の碑の写真 鶴岡公園を歩いていると、あちらこちらに郷土の歴史に名前を残す人々の胸像や顕彰碑といった石碑が見受けられます。石碑めぐりとあわせて、先人先覚の資料を展示している「大宝館」も、ぜひご一緒に見学してみてください。先人達の足跡を学ぶにつれ、普段は何気なく見ていた石碑ひとつひとつに格別の思いがわいてきます。このほか園内には、お城があった当時にどんな場所であったかを示す案内なども各所にあり、探して歩くのも散策の楽しみのひとつです。

 

1.時代小説の第一人者 藤沢周平 案内標柱 (平成13年4月設置)

藤沢周平案内標柱の写真

鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい)は、流れるような文体と爽やかな読後感で、今なお多くの人々の共感をよぶ 時代小説の第一人者。氏の作品の題材には、鶴岡の風景や食べ物などが数多く登場し、その原風景を求めて全国から多くの人が訪れています。こうした原風景の道しるべとして、市内25か所に案内標柱(案内板)を設置しています。その1つが鶴岡公園南側、護国神社とお堀を背景に設置されており、鶴ヶ岡城が舞台となった「花のあと」(文春文庫)の一節とともに紹介されています。

関連リンク
藤沢周平作品ゆかりの地 案内板
 

2.明治の文豪 高山樗牛像・文学碑・墓石 (胸像は昭和26年建立)

高山樗牛像の写真

高山樗牛(たかやま・ちょぎゅう)は、明治時代に文芸界で多彩な活動をした偉大な文学者。歴史小説「滝口入道」で注目を浴びました。胸像とともに「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」と刻まれた墓碑が建てられています。「高山樗牛生誕の間」が大宝館に移築復元され一般公開されています。

●吾人はすべからく現代を超越せざるべからず
目先のことにとらわれず、こころざしに向かって努力し、立派な人となって今の世の中以上のすばらしい社会をつくろうという意味。

 

3.発明王 斎藤外市像 (昭和49年建立)

斎藤外市像の写真

「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ。」と、数多くの発明を残した斎藤外市(さいとう・といち)。内堀を眺めるように外市の胸像が建っています。

数多くの発明の中でも、中心となった織物機械(織機)は、鶴岡織物の発展に大きく貢献しました。このほかにも飛行船、飛行機など、その発明は、高く評価されています。

 

4.庄内柿の祖 酒井調良像 (昭和51年建立)

酒井調良像の写真

荘内神社参道わきに庄内柿の祖といわれる酒井調良(さかい・ちょうりょう)の胸像があります。廃藩後、松ヶ岡の開墾に力をつくし、タネなし柿(平核無柿)の苗木の普及、渋ヌキ方法の研究など、現在の庄内柿の礎をきづきました。冬になると雪よけの頭巾をかぶった調良像が見受けられます。

関連リンク
おいしくて不思議な柿の話
 

放射線医学の先駆者をしのぶ 林文庫記念碑 (昭和48年建立)

5.林文庫記念碑の写真

内蔵器官のレントゲン診断という新しい領域を開き、日本の医学史上 偉大な功績を残した林信雄(はやし・のぶお)。放射線に侵され、自らの両手の指、さらには左腕を失いながらも研究を続けました。昭和38年、林博士の業績を讃え、胸像建立の話が持ち上がりましたが、地位にも名声にも全く無欲の博士は謙遜して受け入れませんでした。その代わりとして表彰記念に庄内人の著書を集めて博士に贈りましたが、博士は青少年の育成に役立ててもらいたいと、自らの蔵書と著書を、あらためて鶴岡市に寄贈。鶴岡市立図書館内に「林博士表彰記念文庫」がつくられ、この碑が記念に建てられました。

 

6.当代漢詩人第一人者 土屋竹雨 詩碑 (昭和45年建立)

土屋竹雨詩碑の写真

漢詩の研究では、日本一といわれた土屋竹雨(つちや・ちくう)。世界平和の祈りをこめた「原爆行」、「水爆行」などの作品は、英語にも訳され、世界各地の人々に深い感銘を与えました。荘内神社参道わきに立つ詩碑は、昭和45年11月5日、竹雨の十三回忌に彼を尊敬する人々によって建てられたもので、竹雨の望郷の詩が刻まれています。

 

7.昭和の流行歌を作曲 阿部武雄 顕彰碑 (昭和61年建立)

阿部武雄顕彰碑の写真

やすらぎ広場に建立されている ひときわ眼をひく阿部武雄(あべ・たけお)顕彰碑。旅役者の子として湯野浜に生まれ、幼くして両親を亡くした武雄は、苦労を重ねながら音楽を学びました。昭和9年には流行歌「国境の町」を作曲。東海林太郎が歌って一世を風びし脚光を浴びました。その後も「むらさき小唄」や「流転」、「裏町人生」など数多くの名曲を世に送り出し、戦前の歌謡界に大きな足跡を残しました。

 

市民に愛された昭和のお殿様 酒井忠明歌碑(平成17年4月建立)

8.酒井忠明歌碑の写真

平成16年2月に87歳で亡くなられた旧庄内藩主酒井家第17代当主・故酒井忠明(さかい・ただあきら)氏(鶴岡市名誉市民)の歌碑。平成15年の宮中歌会始で召人として詠進された「今もなほ殿と呼ばるることありてこの城下町にわれ老いにけり」のお歌が碑文として刻まれています。忠明氏は、文化・芸術に造けいが深く、歌人や書家、写真家など多才ぶりでも知られ、「殿様」を偲ぶ市民有志によって建立されました。

 

 

ほか、鶴岡公園に建立されている石碑

 

番号           名称   建立年                                                                              概要
 9 平田君遺徳碑 明治32年 稲作技術の向上に力をつくし、産業の近代化に貢献した平田安吉(ひらた・やすきち)の功績をたたえ建立。
10 和田光利句碑 昭和45年
自由律俳人 和田光利(わだ・あきとし)をたたえた句碑。
第2句集「海神」から選ばれた句「麦は刈るべし 最上の川の 押しゆく光」と刻まれている。 
11 松平穆堂顕彰碑 昭和47年
書道教育の大家 松平穆堂(まつだいら・ぼくどう)の功績をたたえて建てられた。
鶴岡書道会などの設立など児童・生徒の書道教育の発展に力をつくす。
12 鶴ヶ岡城址碑 昭和2年 鶴岡公園が鶴ヶ岡城であったことを示す石碑。
13 明治天皇行幸記念碑 大正11年 明治天皇が奥羽および北海道に巡行し、国民生活の実状を視察。鶴岡公園では馬術などをご高覧された。
14 東宮殿下台臨記念碑 昭和3年 昭和天皇がまだ東宮殿下であった大正14年、市民の熱烈な歓迎のもと、県立工業試験場などを視察された。
 
石碑めぐりマップ
小耳に鶴岡 平田君遺徳碑の写真

明治という時代

赤い鳥居がつづく稲荷神社の近くに建つ 平田君遺徳碑。
明治32年、実はこの石碑を建てる場所が、旧鶴ヶ岡城本丸の中であったために、反対派の実力行使がうわさされ、除幕式が中止されるというハプニングがありました。石碑の一部が欠けているのは投石によるものといわれています。
最後まで旧体制に挑戦しつづけた平田安吉を象徴するエピソードです。
 
 
鶴岡公園の概要荘内神社鶴ヶ岡城の面影疎林広場四季折々少し足をのばして