昭和の初め 七窪メロン研究会の挑戦

昭和8年七窪の農事試験場での露地メロン栽培(写真提供:樋口吉雄さん)

「メロンの芳香をこの白砂青松の砂丘の上に送ってきたのがたしか大正7年ごろをもって嚆矢とする」(七窪メロン研究会誌「露地メロン栽培手引」から)

庄内砂丘を代表する特産物「メロン」。庄内砂丘のメロン栽培は古い歴史を持ち、記録によれば大正7年までさかのぼることができます。

本格的な普及は昭和6年以降、日本育児院七窪分院(現在の七窪思恩園)の院長、五十嵐喜広の指導で進められました。彼は、昭和2年に渡米した際、カリフォルニアの砂丘で露地メロンを大規模に栽培しているのを目にします。そして、何とか郷里の庄内砂丘でもメロン栽培を実現したいと考え、帰国の際に何種類かのメロンの種子を持ち帰ったといわれます。

その後、西郷、湯野浜、浜中の農家を集めて、昭和6年に七窪メロン研究会を設立。研究会では多くの品種を思恩園の農場で試作しました。そして年々生産量が増加。「産業界の一大驚異」とまで言われるようになりました。昭和10~11年には、栽培農家数250戸、作付け面積24ヘクタールと生産のピークを迎えました。

しかし、念願であった東京市場進出は、うまくいきませんでした。これは、庄内で広く栽培されていた品種が、東京では不評だったことなどが理由でした。その結果、地元に生産物があふれ、品質の低下を招くなどして、価格が暴落。栽培が急減し、昭和15~16年には、栽培農家数が100戸、面積は5ヘクタールになってしまいました。その後、戦時下の食糧増産の至上命令により、メロンは「不要不急の作物」として栽培が中断されます。そして、七窪メロン研究会は自然消滅。五十嵐喜広も戦時中に他界します。

こうして、庄内砂丘のメロン栽培は、全国的にも古い努力の歴史を持つにもかかわらず、むなしく終わったかに見えました。しかし、メロン栽培に燃えた人々の執念は、消えてはいなかったのです。

 

戦時中でも種子は絶やさず 戦後まもなくメロン研究復活

「昭和23年、思恩園の農場を一年だけのつもりで手伝うことにした。この時初めてメロンを作った。種子は、七窪の斎藤伝吉さんという篤農家が戦争中保持していた。毎年、種を採るためにメロンを植え続けていたんだ。この人は、戦前のメロン研究会の幹事だった。それから、日野三郎太さんという、後に思恩園の園長になった人も研究会でメロンを栽培してた。この二人に指導を受けて初めてメロンを作った。ところがその年、ものすごーくメロンがよくできたんだな……」

思恩園の農場主任として活躍した樋口吉雄さんは、当時をこう振り返ります。戦争が終わったとはいえ、まだ食糧不足は続き、穀物の増産が急務とされていました。そのため、農家は穀物だけで大きな収入があり、砂丘地で作られる作物も麦類とサツマイモがほとんどでした。

「昭和30年ころまでは、メロンなど本気になって栽培したのは俺たちくらいで、笑われたこともあった。けど、初めて作ったメロンがうまくできて『世の中さ、こげだうめものがあるもんだろが』って、ポーッとなってしまったんだな。とにかく、朝起きるとまず農場に行って『おはようございます』ってメロンにあいさつ(笑)。朝食食べたらまたメロン見に行って。そうして、ほかの作業して9時ごろまた行って。昼食前にまた行って。一日7回か8回メロンの様子を見に行った(笑)」

当初は、湯野浜の温泉街や鶴岡の市街地での販売だけでしたが、生産能力が上がるにつれて市場を広げる必要性を感じ始めます。そして、戦前に挫折した東京市場への進出を再び目指します。そのためには、より優れた品種に改良する必要がありました。

 

日本初の農民種苗登録 斎藤松太郎の情熱

斎藤松太郎(中央下)と梅木道雄さん(下左から2人目)(写真提供:梅木道雄さん)

昭和28年、樋口さんたちは、ありとあらゆる品種の掛け合わせを行い、思恩園の農場で165品種を試作します。このとき、品種改良にすさまじいまでの情熱を燃やしたのが斎藤松太郎でした。松太郎は、戦時中にメロンの種子を保持していた斎藤伝吉の長男です。

「斎藤松太郎さんは、特別に学歴あるわけじゃなかった。その知識は全部独学。本を読み、自ら農業を実践して得たものでした」

庄内砂丘農業の中心者の一人、斎藤幸雄さんは、当時の驚きをこう語ります。
「そのころの育種学は、今のように遺伝子がどうのこうのなどというレベルじゃない。まさに手探りの学問でした。そんな時代にもかかわらず、松太郎さんは、これとこれを掛け合わせたらいい品種ができるだろう、という理論立てができるくらい高度な知識を持っていたのです」

10年間の苦労の末、昭和39年には松太郎の交配した「ライフメロン」が種苗登録されます。農民としては日本で第1号の登録でした。彼は「我が国の露地メロンの基礎を築き上げた」と言われています。

 

仲間を勇気づけた その先進性と人柄

「松太郎さんとは、同じ集落で育った親友です。頭が良くて、記憶力は抜群でした。その上、勉強家でした。温室の片隅に研究室があって、農業関係の分厚い本がたくさん置いてありました。それを農作業の合間に読んでいるんですよ」

梅木道雄さんは、とにかく人間の出来が違っていたと語ります。そして、松太郎の先進性に度肝を抜かれたと語ります。
「今、ビニールハウスは農業経営に不可欠ですが、松太郎さんは将来を見通して、50年ほど前、すでにガラス張りの温室を建てていましたよ。ほぼ間違いなく、山形県で一番最初のガラス温室でしょう。しかも、温室の中に風呂を作って、通路の下を煙突にして暖める『オンドル式』という暖房まで備え付けていました」

県砂丘地農業試験場に通算32年間勤務し、やはり松太郎と親交が深かった梅本俊成さんも、その先見の明には驚嘆したと語ります。

「当時、砂丘地はサツマイモや麦の時代で、メロンや花が成功する気配はまったくありませんでした。そもそも、花などは全然作っていなかったんです。そんなとき松太郎さんは、オンドル式の温室でいろいろな花作りをしていた。最近になって、鶴岡でも大勢栽培するようになったストックという花、戦後間もないその当時、松太郎さんが作ってましたよ!シクラメンなんかもやってました。あんまり進みすぎていて、それを引き継ぐ人がいなかったのが残念ですね」

昭和20年代、すでに松太郎は「これからはメロンと花の時代である」と将来を見通していたそうです。「見ていろ。この砂丘地に、もし水をかけることができるようになったら宝の山になるぞ」と、スプリンクラー灌漑施設を取り入れたのも、庄内砂丘では彼が最初でした。

メロン畑の写真

「松太郎さんは、自分だけもうけよう、なんていう人ではなかった。自分で試して良かったものは、必ずみんなに話してくれました。そもそも、金もうけする気はなかったようです。メロンも、温室も、スプリンクラーも、松太郎さんが最初に試す。すると、周りの農家にもサーッと普及する。これが、試験場で試しただけでは、そうはいかない。『試験場で実験するのと、我々が実際栽培するのとは違うんじゃないか』と思いますから。彼がいなければ、この地域の農業の発展は、数年遅れてしまったでしょうね」

梅木道雄さんは、松太郎の影響で庄内砂丘では新しいことがいち早く普及したと語ります。多くの農民は自然に彼を慕い、いろいろな相談をしたそうです。そして、彼に勇気づけられたといいます。斎藤幸雄さんも何か新しいことをやろうとすると、必ず彼に相談したと言います。

「この辺で、誰もやっていなかったピーマンを栽培しようと思って彼に尋ねると『おお、それはおもしろい。これからはピーマンが必ず食生活に入ってくる。やれやれ!やってみれ!』と励ましてくれました。また、彼が作ったライフメロンは、日持ちが短いという欠点があったため、東京進出はうまく行かなかった。そんな中で、当時開発されたばかりのプリンスメロンを植えようと思ったんです。彼に相談したら『あれはいいよ。やれやれ!』って言うんです。自分の開発したライフメロンにこだわらなかった。物事を客観的に判断できる人でした」

梅本俊成さんは「松太郎さんは、自身も裕福ではない砂丘地の農民として生まれ、何とか不毛の砂丘に悩まされる人々の暮らしを変えようとした」 と言います。

晩年彼は、アメリカに輸出するメロン品種を作りたいと情熱を燃やしていたそうです。しかし、その夢は果たせぬまま、昭和56年、病のため58年の生涯を終えます。それは、全国に「庄内」の名をとどろかせることになるアンデスメロンが、やっと庄内砂丘で作られ始めたころでした。

 

農家に密着 砂丘地試験場の奮闘

創立当時の県農事試験場砂丘試験地のほ場の写真

「松太郎さん自身に、能力があったのは言うまでもないですが、砂丘地試験場という存在が彼の活躍を大きく後押しした点は見逃せませんね」

梅木道雄さんは、県砂丘地農業試験場が七窪にあったことの意義は大きいと語ります。

現在の県砂丘地農業試験場の前身である、県農事試験場砂丘試験地が七窪に設置されたのは昭和11年。当時、七窪メロン研究会では、メロン以外にもアスパラガスやトマトなどの新しい西洋野菜の栽培も手がけていました。しかし、技術的に未熟で経営も不安定でした。そこで県に対して指導機関の設置を要望。地元の熱意を受け、県では試験場の開設を決定します。建設予定地の西郷、袖浦村では、新設費と土地の寄付を決めました。ところがその年、未曾有の凶作と冷害にあい、寄付が不可能となります。そこで、西田川郡内の全町村、全町村農会、庄内二市三郡農会などが、代わって寄付を行うことにしました。さらに土地の開墾整地には、地元の人たちが労働奉仕をするなど、地元全体の熱意によって、試験場が開設されたのです。

そんな経緯があったからでしょうか、試験場と地元農民とのつながりは非常に深かったといいます。斎藤幸雄さんは地域に根ざした試験場だったと語ります。

「とにかく役所臭くない。敷居が低くて、私もしょっちゅう通っていました。それに試験場の先生方が頻繁に農家の畑まで来てくれてね。農業者と一緒にやるんだ、という姿勢を強く感じました。松太郎さんも試験場の先生たちと交流する中に、知識や技術を身につけたと思いますよ」

昭和25年から、27年間砂丘地農業試験場に勤務した若松幸夫さんは「試験場で試したことを農家に伝える。それを農家が実践する。その結果を再び試験場に伝えるという、お互いのキャッチボールが非常にうまくいっていた」と語ります。斎藤松太郎がいち早くスプリンクラーを導入したのも、若松さんらの指導があったからでした。若松さんや梅本さんら当時の試験場の方たちは、とにかく地元のためにという意識から、型破りなこともやりました。長年、砂丘地を担当してきた鶴岡市農協園芸特産課課長、佐藤保さんは一例として「ビニール水田」を挙げてくれました。

「これは、砂丘の砂を掘ってその下にビニールを敷き、水が漏れないようにし、水田にするというもの。『自分で食べる米が確保できれば、もっと思い切った農業ができる』との農民の願いに答えたものでした。田を所有していない農家には大変喜ばれ相当普及しました。しかし、昭和40年代半ばから政府による米の生産調整いわゆる減反が始まり、県の上層部からは『減反しているのに水田を増やすとは何事か』とかなり叱られたそうです。そもそも稲の研究をする試験場は別にあるのだから、砂丘地試験場でそういう試験をやること自体が型破り。そんな枠を乗り越えてまで、地元の農家のことを思い、情熱をもって取り組んでいましたね」

 

砂丘に描く夢 飽くなき挑戦は続く

アンデスメロンの写真

昭和40年代後半から50年代前半のプリンスメロンのヒット。その後のアンデスメロンの躍進。庄内砂丘メロンは全国に知られるようになりました。斎藤幸雄さんは、こう感慨を漏らしました。

「以前は鳥取砂丘に視察に行ってました。今は、鳥取から庄内へ視察が来るようになりました。時代は変わるものですね」

長い間、不毛地帯と思われていた庄内砂丘。それを克服しようと挑戦し、砂丘に夢を描き続けた先人たちの心意気は、今も脈々と受け継がれています。

 

庄内砂丘メロンについて

太陽と大地の贈り物「海辺の物語」(JA鶴岡)

鶴岡産メロンエコファーマー宣言(JA鶴岡)

◎庄内砂丘メロンに関するお問い合わせ
 JA鶴岡販売課 TEL 0235-29-2828

参考文献
「西郷砂丘畑振興会30年のあゆみ」(西郷砂丘畑振興会)、「仕事に賭けた男のつぶやき」(若松幸夫)、「砂丘よ健在なれ」(山形県園芸試験場砂丘分場)、「特産庄内のメロン」(東北農政局山形統計情報事務所酒田出張所)、「湯野浜の歴史」(湯野浜地区住民会)