鶴岡 磯釣り今昔

磯釣りの図
 
磯釣りの図 山田東谷作
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東谷は鳥羽絵と呼ばれる作風で多くの磯釣りの絵を残した。庄内竿の曲がり具合と、釣りをする者の姿勢をうまく表現している。

 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
 
「土屋鴎涯戯画」より
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明治から昭和初期にかけての釣り行の様子

今でもたくさんの人が楽しむ庄内浜の磯釣り。
海岸に面した道には釣り人たちの車が並び、磯場や防波堤に大物を狙う人がたたずんでいるのはこの地方の風景のひとつとなっています。 独特の崇高な伝統と文化に支えられてきた鶴岡の磯釣りの移り変わりを紹介します。

庄内藩士が確立 鶴岡の「釣道」

庄内の磯釣りが初めて文献に登場するのは今から約190年前の宝永4年(1707)温海組大庄屋、本間八郎兵衛の覚書きで、松山藩の藩主が温海に湯治の折、釣りを楽しんだと記録されています。また、庄内藩士が加茂磯で釣りをするという記録もその9年後に登場します。

釣りが盛んになったことの理由としてよく言われているのが、江戸時代この地方を支配した庄内藩主の奨励があったからだということです。文献では文政10年(1827) 庄内酒井家10代、酒井忠器の時代、次のような御触れ書きが出されています。

…御家中の人々が鳥刺し(竿の先に鳥もちを付けて小鳥を生け捕りにすること)や釣りのため遠くまで歩いていくことは、健康のためにもよいし、また武用の一助にもなり、たいへん良い事である。ところが磯釣りに行って海に落ちたり、鳥刺しで場所争いをするようなこともたびたび耳にする。こうしたことは殿様のご意向に反することであり、どうかと思われるので、互いによく注意し合って、心得違いのないようにご家中の若者たちへよくよく申し聞かせるようにと(殿様)が仰せられた…

藩主が釣りを奨励しながら、その過熱ぶりを心配している様子がうかがえます。

江戸時代、藩士たちの磯釣りは、大小の刀を差し、餌や道具と魚入れを持ち、何本かの竿を担いで、城下から約12キロメートル、遠い所では40キロメートルも離れた日本海の岩場まで、山を越えて歩いて行くという大変なものでした。長く平和が続いた時代、磯釣りは、行軍のための足腰の鍛練にもなり、武道と同様に「釣道」として尊重されました。また、大物を狙って明け釣りをするときは、前日の夜11時ごろから出掛けることもあり、この夜間の野歩きが胆力を付け、夜に目を利かす斥候の訓練に役立ったと言われています。

また、誤って海に落ちて死んでしまったり、竿や刀を流すようななことがあれば、家禄を減らされることもありました。

鶴岡では武道に匹敵する磯釣りを「勝負」と呼びました。今でも釣果を尋ねるときに「今日の勝負はいかがでした」という言い方が残っており、勝負が大勝だったときには、親しい人を招いて、酒宴を張り釣果を披露する風習もありました。

幕末に釣りの奥義について記した庄内藩士陶山槁木の「垂釣筌」には…路にはぞろぞろと釣人がつづき、晴れた日も、曇りの日も、竿のふれあう音、人々の足音が聞こえない日とてない…と記され、磯釣りの盛んな様子を伝えています。

竿は刀 武士の作った庄内竿

磯釣りが武道と同じように尊重されたため、竿は刀と同じように大切にされ、独自の文化をつくり出してきました。今に受け継がれている庄内竿です。

実戦での武器に相当する釣竿の善し悪しが勝負を左右することから、藩士たちは、自ら竹薮から竹を切り出し、納得のゆくまで手作りしました。材料はこの地方に自生する苦竹(にがたけ)で、本来は延べ竿(つなぎのない1本竿)として作られていました。庄内竿は竹の根も付けたままで竿にされていて、竹に活力を与える根のもつ美しさも生かして作られています。また表面は漆などを塗らず、生地の美しさも生かして仕上げられるのも特徴です。

しかし、この地方では雪が竹を曲げてしまうので、竿として使える真っすぐな竹を探すのは大変だったようです。庄内藩の軍学師範、秋保親友の「野合日記」では「文政初期 1821~1827) には高坂より丸岡まで竹を切る人が多く(適当な竹が)さっぱりなし。村々のやぶには道がついている」と記されています。また「名竿は名刀よりも得難し」とし、良い竿は子孫の代まで大切にしなければならないとしています。

幕末から昭和にかけて、鶴岡は何人かの庄内竿作りの名人を輩出しました。

クロダイ釣りの名竿を残した陶山運平(垂釣筌の作者、陶山槁木の弟)、細身の優れた竿を作った丹羽庄右衛門、年間20~30本の釣り竿を作り、そのすべてが名竿であったという上林義勝、長短、剛軟臨機応変の竿を作った山内善作など多くの竿師が独自の竿を残しています。

敏感な魚信(アタリ)としなり これが庄内竿の魅力

現在、数少ない庄内竿の製作者で、40年近く庄内竿を作ってきた錦町の丸山松治さんは、「材料の苦竹は、山田や辻興屋、また余目や遊佐の農家の竹薮から取ってきます。真っすぐしていて根が丸みを帯びてきれいなものがいいです。竹を採るかわりに、竹薮の余分な竹や曲がった竹を取りのぞき、真っすぐな竹が延びるように、竹薮の手入れをします。また、雪で曲がらないように、まとめて縛ったりもします」と語ります。また、「我々よりも上の人はほとんど自分で竿を作って、自分で釣ったもんです。でも今の竿は軽くて手入れも簡単なのでみんなそちらにいってしまった」とも。

庄内竿の特徴は、魚が喰らいつくときの魚信がとても敏感なこと。雨の中でも風の中でも、魚が餌をなめればすぐに手元に感じる。そしてすぐにぐーっと引いてくる。このしなりが庄内竿の魅力です。最近も庄内竿で魚を釣って、この独特のしなりに病み付きになって、自分でも作るから教えてほしいと丸山さんのところに来た人がいたそうです。

時代の変遷の中での鶴岡の磯釣り

高館山より加茂港を望む

江戸から明治、昭和へと時代は下るにつれ、武道のひとつとされた釣りにも少しずつ変化が出てきました。

明治時代の磯釣り行を語ったものの中には「朝4時には提灯を下げて家を出る。加茂隧道にさしかかると夜も白々と明ける。隧道の近くは磯釣りに行く者であふれ、釣り竿の触れ合うカチカチという音が調子よく、音楽のようであった」という記録もあり、新しく開削されたトンネルの中は加茂に行く釣り人たちでごったがえしていた様子がうかがえます。

また、大正8年に羽越本線が開通してからは、海岸まで汽車で行く釣り人たちが増加。長い1本竿では汽車に乗るとき不便なことなどから、継ぎ竿が多く作られるようになりました。当時の、磯釣りの様子を描いた絵には、駅員と長い竿を担いだ釣り人との交渉の様子を描いたものも残っています。

そして戦後…。自動車の普及、カーボンなど軽い素材を使った竿の登場と、釣りは利便性と機能性を追求したものへと変化を続けてきました。

しかし、今でも海に向かって勝負を挑む釣り人の姿を目にするとき、その果敢な後ろ姿に、武道として釣りを重んじた庄内藩士の姿を重ねてみたくなります。

庄内竿にまつわる秘話 名竿 榧風呂

最後に鶴岡が生んだ庄内竿にまつわるひとつの物語を紹介しましょう。

明治、大正時代の竿作りの第1人者と言われた上林義勝には、生涯自分の手元に置いて眺めていたい名竿があった。尺二寸の黄鯛(こうだい)を釣っても二尺四寸の鱸(すずき)を釣り上げても同じような形に竿がしなり、釣り上げた後はすぐ元の凛(りん)とした姿に戻るという名竿だった。上林はこの竿を当時の酒井家の当主に懇望されたが、これだけは差し上げることがなかった。

晩年、中風を病んだ上林は、荒興屋の竿の収集家、五十嵐某がこの竿を懇願したとき、「中風を病んだ者は榧(かや、将棋の盤材に用いられる高価の木材)で作った風呂に入ると治ると言われている。1週間で榧で作った風呂を持ってきてくれたら、この竿を差し上げよう」と冗談まじりに言った。五十嵐某は早速桶屋に行き、無理を言って1週間で榧で風呂を作ってもらい、念願の名竿を手に入れて酒井家の当主に差し上げた。以後、この竿は榧風呂と呼ばれるようになった。

その後、当主はこの榧風呂を愛用したが、ある日、鼠ケ関で釣りをしていたとき、魚に竿ごと持ち去られ、榧風呂は水中に消えた。次の日、ある漁師が水面から竿尻が立っているのを見付け、引き上げてみると、尺六寸の赤鯛が掛かっていて、榧風呂に間違いなかった。

致道博物館「御隠殿」内に展示されている庄内竿の写真

漁師は早速この竿と鯛を持参して届けた。しかし、当主曰く、「魚釣りで竿を構えていることは、武士であれば刀を抜いて構えることと同じである。魚に竿を取られたことは、相手に刀を取られ斬られたことと同じで、武士として恥ずかしいことだ。赤鯛はありがたくご馳走になるが、竿は拾ったそちのものである」と言い、竿はこの漁師の手に渡った。

その後、榧風呂はこの漁師と親しくしていた釣り好きの鶴岡の人に渡り、その後、致道博物館に寄贈され、現在は同博物館で見ることができます。

 

参考図書
庄内人名辞典(庄内人名辞典刊行会)、随想 庄内竿…根上吾郎((有)フィッシュオン)、垂釣筌…陶山槁木((有)本間美術館)ほか