文明開化の名棟梁 高橋兼吉 ~鶴岡のシンボルをつくった男~

明治の文明開化とともに一大建築ブームがわき起こり、日本各地に洋風建築が出現した。その景観・演出は多彩を極め、衆目を集めたという。そして、ここ鶴岡でも、旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署など、現在でも観光の名所となり、鶴岡のシンボルともなっている洋風建築がある。これらの産みの親が、高橋兼吉。文明開化という時代の変革期に生き、和洋折衷の洋風建築による優れた建物を数多く残した職人の腕が、今再び見直されようとしている。
 
旧西田川郡役所の写真   旧鶴岡警察署庁舎の写真
 

お抱え棟梁・高橋兼吉登場

鶴岡公園で、熱心に写生している子供たち。その絵の中には赤い屋根が印象的な大宝館や、威風堂々とした旧西田川郡役所がよく登場します。ひょっとしたら、あなたも子供のころ写生した記憶があるのではないでしょうか? ほかにも、鶴岡公園の周辺には、旧鶴岡警察署や、赤い八角尖塔屋根のカトリック教会など、洋風建築が目白押しです。

これら鶴岡を象徴するような西洋風の建築は、すべて地元の工匠たちによって建てられました。その代表的な棟梁こそ高橋兼吉です。

兼吉は弘化2年(1845)、大工町(現陽光町)の大工職人、半右衛門の次男として生まれました。父について大工仕事を習ったのち、余語與兵衛の弟子となり修業を重ねました。その後横浜に出た兼吉は佐野友次郎につき洋風建築の工法を学び、帰郷しました。

明治8年、兼吉が30歳のときに羽黒町松ヶ岡の蚕室の設計、施工に携わりました。その後酒井家のお抱え棟梁、小林清右衛門の後継者として抜てきされました。このことは、鶴岡の第一人者として公認されたことを意味するものでした。ここから、彼の華々しい活躍が始まります。

 

文明開化と洋風建築

鶴岡初の洋風建築は、明治9年の朝暘学校でした。「大きな図体のふてぶてしい印象の建物で、擬洋風小学校としては、(中略)日本最大の規模を誇った。」(藤森照信著、岩波新書「日本の近代建築」から)といいます。

この建物には、兼吉が直接建てたという記録は残っていませんが、その建設に深く関与していたものと言われています。

この朝暘学校を見た当時の人はさぞやその異様な姿にびっくりしたことでしょう。

兼吉が洋風建築に本格的に取り組んだのは、明治13年の西田川郡役所。36歳の時でした。

これは時計塔のあるルネッサンス風の建物で、入母屋屋根の1階から最上部の時計塔までだんだんと積み重なっていくその形は、強烈に“天守閣”をイメージさせる建物となっています。

完成は翌年5月となりましたが、折しも、この年の9月、明治天皇の東北御巡幸があり、その行在所(御宿舎)となったため、完成からわずか4か月足らずで改築を行っています。

つり階段の写真
▲西田川郡役所の2階から塔に登るつり階段。下から支える柱がなく、まるで天守閣に登る細い階段のよう。
 

また明治17年には、旧鶴岡警察署庁舎も完成しました。車寄せにバルコニー、白いペンキ塗りの板張りの外壁という洋風と、それに対して一階が入母屋の屋根、2階屋根には鬼瓦と鶴の絵模様の飾りという和風が無理なく調和して、大変美しい建物となっています。

その他にも兼吉が携わったとされる建物は、清川学校、鶴岡裁判所、東田川郡役所、西田川郡医事講究所、大山尋常小学校、鶴岡町役場、山居倉庫などがあり、庄内を代表する棟梁として腕を発揮しました。

松ヶ岡蚕室の写真
松ヶ岡蚕室(鶴岡市)
旧東田川郡役所の写真
旧東田川郡役所(鶴岡市)
山居倉庫の写真
山居倉庫(酒田市)
 

一方で兼吉は宮大工として神社仏閣の建設にも取り組んでいます。明治10年の荘内神社、明治15年の湯田川由豆佐売神社、そして晩年は善宝寺の五重の塔に情熱を傾けていきました。

また娘婿として巖太郎を迎え、西田川郡役所以降の建築は、二人の共同で行われたと言われています。

そして兼吉のライフワークとなったのは、意外なことに洋風建築ではなく、善宝寺五重塔の建築でした。この建築に明治18年から9年間と、最も長い時間を費やしています。しかし、残念なことに、まるで五重塔の竣工を見届けるかのように、完成の翌年、明治27年に逝去することになるのです。50歳の生涯でした。

荘内神社
荘内神社
由豆佐売神社
由豆佐売神社
善宝寺 五重塔
善宝寺五重塔
 

鶴岡は洋風建築の宝庫

しかし鶴岡には、なぜこれほどまで多くの洋風建築があるのでしょうか。

これらの建物を建てるよう指示したのは当時の県令(県知事)三島通庸でした。

三島は、戊辰戦争で最後まで抵抗し、いまだ明治新政府に対して反対の空気が漂う、この地域の政治的安定を図るために派遣された県令でした。そのため、三島はまず殖産興業と文明開化という2つの政策を打ち出します。

殖産興業の一つが交通体系の整備で、山形県と周囲の秋田、宮城、福島をつなぐ新しい道路を開きます。また新しい産業の育成にも努め、農業試験場や、農機具の改良、西洋野菜の栽培を始めます。山形のサクランボは三島が自ら苗木を取り寄せたと言われています。

さらに文明開化政策は、鶴岡での朝暘学校に続いて各地で学校、病院、県庁、郡役所、警察など、新しい機能の建物を洋風建築で造ることを通して行われました。

三島は、洋風建築という手法を通して、新しい時代が来たことを誰の目にも明らかな形で示そうとしたのです。

 

ベンガラ色の瓦の秘密

兼吉が携わった松ケ岡の蚕室や西洋建築の多くには、鶴岡城の瓦が再利用されています。高橋兼吉を研究している鎌田悌治さんは「瓦は当時とても貴重な物だったんです。刀を差した侍が、わざわざ瓦を2~3枚ずつ担いで行ったという記録が松ケ岡に残されています」と語ります。

そして鶴岡城に使われていた「赤瓦」の色は、釉薬に入っている錆びた鉄の色。一方、よく見かける黒瓦は、大正時代になってからのもので、それ以前はすべて赤瓦でした。その赤瓦を焼くためには、鉄をも溶かす1200度という高温で焼かなくてはなりません。これほどの高温を出すためには、赤松でつくった上等の薪でないとダメだそうです。そのため、当然瓦は大変な貴重品となっていました。

そしてさらに、鎌田さんは「兼吉は江戸時代の瓦で、明治の建物を建てた。確かにお金を節約するという面もあったと思いますが、兼吉は江戸の材料を再利用して、不似合いでなく、洋風建築を建てた。これは素晴らしいことだと思います。また白い洋風と赤錆色が似合いますよね。兼吉は瓦を再利用することで、物を大切にする心を現代に伝えていると思います」と語ります。

 

建物は人がつくる

「兼吉はあまり多くの大工道具は持たなかったそうですよ。大工の棟梁と、今でいう設計者とを兼ねていたんだと思います」と鎌田さん。

兼吉は当時の大工としては珍しく、必ず設計図を書いてから仕事に取りかかったそうです。致道博物館に残された彼の製図道具は、そのことを象徴しているようです。

また兼吉は豪放磊落な人物だったそうです。善宝寺五重塔の建築にあたって、他の棟梁と奈良、京都に出かけたとき、道中、山賊が現れたが、これを兼吉が谷に投げ飛ばした、という豪快な逸話も残っています。

旧鶴岡警察署の妻飾りの写真。鶴の飾りが美しい

その反面、彼が残した建築は繊細です。繊細でありながら、屋根の妻飾りのように、強烈に個性を主張するような独自の装飾を施しています。

「建物は人がつくる」

これが兼吉の口癖だったそうです。建てられたものには、建てる人間の思いや考え方が自然とにじみ出てくるということでしょうか。

 

今も伝わる物作りの心意気

鶴岡の工務店に勤める伊藤喜市さんが平成10年、全国青年技能競技大会で銅賞になりました。

この競技大会は、全国の予選を勝ち抜いてきた若手大工79人が、「四方転び踏み台」という課題に挑み、ミクロ単位の正確さを競う競技です。伊藤さんの腕の確かさが全国トップレベルであることが証明された結果となりました。

伊藤さんを送り出した田川建労執行委員長の斎藤眞佐記さんは「若手大工の技能を競うこの大会には、6年ほど前から選手を送り出していますが、3年ほど前から、ようやく入賞するようになってきました。今度の銅賞で、庄内の大工の腕が確かなものだと証明されました。昔から『温海大工』に『大山左官』と言われて、その腕の良さは、広く知られているところです。今後も若手育成に励みたいです」と語ってくれました。

大工さんの卵を育てる、鶴岡高等職業訓練校も一時期、生徒数が少ない時代がありましたが、今は毎年25人くらいは集まって、県内一の規模になっているそうです。

斎藤さんは、「会社勤めをやめて、手に職をつけようとしてやってくる若い人が増えてきていますね。最近は、プレハブや輸入住宅が増えてきたたんで、大工の腕を見せる仕事が減ってきたんです。昔の大工は『口は下手だども、腕は確かだ』 で通用したもんですが、これからは腕をさらに磨いて、さらに在来工法の良さ、木の家の良さを宣伝しなくては…」と語ります。

明治維新という大変革期に、自分の腕を信じて、見たこともないような西洋風の建物を、見事なまでに作り上げた棟梁たち。一方、戦後最大の変革期とも言われる予測不能の時代、若い人の間にも手に確かな職をつけることが、見直されてきています。確かな物をつくる伝統が続く限り、どんな時代の変化がきても鶴岡は乗り越えていくことができるでしょう。
(旧鶴岡市広報 平成11年1月1日号からの転載)