
明治17年(1884)〜昭和37年(1962)
本名は末吉。庄内の書道教育の大家である。
5年・10年かかるのが普通といわれる文検にわずか1年で合格。抜群の秀才であった。
酒田高等女学校に勤めたが、書道の本流を探求しようと中国に渡った。10年後に帰朝して鶴岡高等女学校に勤め、その間鶴岡書道会を設立主宰した。
一時宮内省嘱託となり郷土を離れたが、3年後帰郷し、小・中・高校の児童生徒の書道教育に尽力した。この事業は今日なお継続されている。
庄内に穆堂流をひろめた功績はまことに大きなものがある。
その書風は日下部鳴鶴流を黒崎研堂に学び、吉田苞竹と共に黒埼門下の逸材といわれた。
あらゆる古法帖に通じ、楷書と隷書が特に優れている。「書と人間」ということを常に考え、書を通じての人間陶冶を願っていた。
鶴岡公園内に顕彰碑がある。
明治23年(1890)〜昭和15年(1940)
本名は茂松。苞竹と号す。大正・昭和にかけて日本の書道会興隆に尽した人である。
25才の時文検に合格し、松平穆堂に代って酒田高等女学校の教諭を勤め、かたわら日下部鳴鶴の教えを受けて書道に励んだ。
3年後には上京して鳴鶴の門人となり、中央書道会に身を投じた。その後書道研究会をつくり、古碑帖(こひちょう)の研究に没頭した。
さらに、新書道普及のために「書壇社」「東方書道会」を設立、また「碑帖大観」「書道読本」「書談」等多くの書を発刊して中央書道会で活躍した。
松井如流・出口草露・近藤秋篁・近藤様南・山下涯石等現代一流の書家を多く育てたが、惜しくも51才の若さで死亡したことが悲しまれる。
嘉永5年(1852)〜昭和3年(1928)
藩校 致道館に学んだ最後の世代。本名は馨。通称は与八郎、研堂は号である。酒井玄蕃・酒井調良の弟でもある。
藩士として戊辰戦争で戦い、後田山開墾、北海道開拓に従い、金融機関への奉仕・天保堰水利組合加入への努力等々、一連の活動もさることながら、研堂の面目はやはり書家としての面であろう。
日下部鳴鶴に師事して以後書風が一変し、本格的な書家としての道を歩むことになった。
鳴鶴との結びつきは一人研堂の書に限らず鶴岡の書道会と中央との関連を持ち得たという点でも重要な意味をもつ。
研堂の書法は廻腕法といわれる。また「書は楷書より習うべし」といい、「書の第一は気品にあり」として、精神表現・心の修養を強調した。
研堂自身深い学殖とすぐれた詩文を心の糧として風格ある書風を築いていった。