
文政8年(1825)〜明治25年(1982)
幼名欣之助、通称嘉世右エ門。胤保は晩年の号である。
庄内藩士の子として鶴岡に生まれ、致道館に学ぶ。
庄内藩の支藩である松山藩の付家老として幕末混乱期の藩政を処理し、戊辰戦争の功により藩主より松守(松山を守るの意)の姓を賜ったが、辞して松森とした。
以後十数年、同地方の公職にあって政治・文化面で貢献し、一時は県会議員も勤めた。
勤めのあい間に、動植物学・物理学・化学・工学・歴史学のほか考古学等に至るまで調査研究に励み、特に公職を引退してからはこれに没頭、著書700冊に及ぶという。
代表作「両羽博物図譜」59冊は、その分類法において近代のそれに迫るものがあり、その研究は実証的な傾向をもつ優れたもので、県の有形文化財に指定されている。
博識多才で、百科全書的な才人だったが68歳で死去。鶴岡市内の禅源寺に大きな墓碑がある。