大宝館展示人物紹介

高山 樗牛 (たかやま・ちょぎゅう)

明治4年(1871)〜明治35年(1902)

鶴岡公園内に「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」と刻んだ高山樗牛の墓碑がある。

これは「毎日の生活の中で、目先のことだけにとらわれず、目先のことだけにとらわれず、理想や希望や目標に向って一生懸命努力し、立派な人間になって今の世の中以上のすばらしい社会を作ろう」という意味のことを言っているように思われる。

彼、高山林次郎は、仙台の旧制二高旧制帝国大学哲学科を卒業したが、二高在学中から『樗牛』という号をもって校友雑誌に文筆をふるっていた。

大学時代に、読売新聞社の懸賞募集で小説「滝口入道」が首位入選し、新聞に掲載されて一躍注目を浴びた。

又、大学の機関誌「帝国文学」の編集委員となり、道徳の理想や人生を論じ、更に「近松門左エ門」の論文で日本の文学者文筆家社会で広く認められた。

大学卒業は、一時仙台二高の教授になったが、すすめられて博物館に入り、当時最高の文壇誌といわれていた「太陽」の文芸主任になり、主として評論で名声を高めた。

彼は、小説家と言われることを嫌い、学者評論家として快刀乱麻の筆舌をふるい、文筆家を叱咤し、文芸界に大きな足跡を残した。

彼の心のよりどころは、時代と環境の推移にともない、浪漫主義から日本主義ニーチェ主義日蓮主義と目まぐるしく変わったために、一部非難の声もあったが、彼は偉大な文学者であった。

肺の病気が悪化し、欧州留学を前にして32才の若さで死亡したことが惜しまれる。