
嘉永4年(1851)〜昭和2年(1927)
一生を檀信徒の教化と社会事業に尽くした人。
常念寺の重職となり、その頃から災害のあるたびに私財を投じて難民の救済に当った。
貧困家庭の子供のために日本最初の学校給食を実施したことは有名である。火災のために学校が廃止になると忠愛協会を設立、同志とはかって月2回托鉢して基金をつくり、貧しい家庭の児童たちに学用品・雨具・昼食を与えてくれた。
身元不明の行き倒れの死体があればそれを葬り、とかく世間から白い目で見られがちな刑務所あがりの人があれば、これを励まして再出発の力になった。
また、時間観念の乏しい当地方の人々のために"刻の鐘"を鳴らすなど、地域社会のために一生を捧げた人である。
明治5年(1872)〜昭和19年(1944)
博愛の人、日本育児院創設の人である。
少年の頃は大変な腕白小僧であったが、松村介石の本を読んで感銘を受け、熱烈なキリスト教信者となった。
伝道の途中、飛騨の山中で捨て子を拾ったのが社会救済事業の道に入るきっかけとなった。飛騨育児院を設立して孤児を収容し、破れ障子にボロ畳の家で、食もなく寒さに歯の根も合わない夜を猫のようにうずくまって寝るという、まさに死と隣り合わせの毎日であった。
彼の命をかけた東奔西走によりこの聖業が理解され、拡大普及されて、国内各地・近隣国にも育児院が設立されるようになった。七窪の思恩園も彼の設立である。
彼の博愛の精神は、国内はもとより国際社会事業大会を通じて外国にまで及んでいる。