

■ どんな勉強をしていたか
中級以上の武士の家の男の子が、数えの10歳で入学しました。下級武士の子どもでも優秀な人は入ることが許されました。学力によって5つの等級にわかれていて、年齢に関係なく学力に応じて進級するしくみです。
致道館の教育
| 等級 |
現在の学年にすると |
どんなことをしていたか |
句読所
くとうしょ |
小学生 |
4つの学年にわかれていて、先生が論語などの読み方や習字を教えてくれる。年4回の試験。授業時間は朝8時〜午後2時まで。句読所の生徒でも、学年が上になると午後4時まで2時間のひとり勉強の時間がある。 |
終日詰
しゅうじつづめ |
中学生 |
授業はなく1室6〜7名で自主学習。試験は年4回。四書・五経といわれる本や歴史書、詩文などを学んだ。朝8時に始まり夕方4時まで。ただし希望者は5時まで自習を続けてもよかった。 |
外舎
がいしゃ |
高校生 |
1室2名で自主学習。試験は年4回。歴史書や諸子百家、詩文の本を勉強に使った。8時から4時まで勉強したあとに武芸のけいこも。 |
試舎生
ししゃせい |
大学生(教養課程) |
朝7時から夕方5時まで1人1室で自主学習。勉強する本は自分で選ぶ。試験は年1回で、3年たっても思うようにのびないときは退学。 |
舎生
しゃせい |
大学生・大学院生 |
1室に寝泊まりしての自主学習。藩の勤めが免除されたうえに食事も与えられた。朝6時から夜10時まで自分が選んだ専門的な勉強をする。 |
教科書は全部漢字で書いてある(漢文)中国の本を使いました。句読所の生徒は担任の先生が世話をしてくれますが、終日詰以上は ひとりで勉強します。会業(かいぎょう)とよばれるグループ学習にも必ず出席しなければなりません。会業に出ることは、日頃ひとりで勉強したことの結果を確かめたり、深めたり、反省したりするとても大切な学習方法です。
試験は一斉テストなどがあるわけでなく、日頃の出席数や学習の様子の記録、毎日提出する学習の成果、会業での様子などを総合して、先生たちが話し合って進級させてよいか決めるやり方でした。
外舎になると、宿泊して学びたい人は米7俵(約500キログラム)を出すと許されました。三百数十名いた生徒の中で、学校に泊まっていたのは20名ぐらいです。このほか入学前の子供たちが集まって、学校がはじまる前の朝7時〜8時まで読み方だけ教わって帰る「朝句読」などもありました。
多くの藩が朱子学という学問を藩学とするなか、致道館は、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)という学者がとなえた徂徠学(そらいがく)を教学とし、生徒一人ひとりの生まれつき持っている能力を大事に、その優れたところを十分に伸ばし、自分から進んで積極的に学び・考え・理解し、それを実際に生かすように生徒を育てていました。能力に応じた進級方法、自主学習や会業も徂徠学の教えによるもので、これが致道館教育の特徴です。
こうして勉強を続けて卒業を迎えると、その人の才能や個性に応じて、藩の役が与えられました。やがて、生徒たちの間に、学問を大切にし、行ないをつつしみ、競って行動する気風を生み、武士たちのふるまいも改まったといわれています。
その後、致道館からは「両羽博物図譜」など生涯700冊の著書を残し、日本のレオナルド・ダビンチともいわれた松森胤保(まつもり・たねやす)や「アツシ判官」として北海道の開拓に尽力した松本十郎(まつもと・じゅうろう)など優れた人材を多数 世に送り出し、明治6年(1874年)廃藩置県により幕を下ろしました。
身体もきたえた致道館
生徒たちは机に向かって勉強ばかりしていたわけではありません。
致道館には武術けいこ場と矢場がそれぞれ2つ、馬場が1つありました。生徒達はここで、剣術や弓術、馬術などを習いました。終日詰以上の生徒たちは月に6回、身体をきたえるために野山にでかけ「鳥さし」や「いそ釣り」をしました。また月に1度は遠足があり、ヤリや鉄砲をかつぎにぎり飯を持って、夕方に出発して24時間歩き通すというものでした。ご飯も歩きながら食べます。慣れてくると120キロメートルも歩けるようになったそうです。
王取り
句読所の生徒たちの遊びで、2つの組に分かれ、むしろの中にかくしてある「王」を取り合うものです。「目に指を入れてはいけない」「食いついてはいけない」という2つのルールしかありませんでしたから、王を守っている下級生たちと、それを取ろうとする相手チームの上級生たちのぶつかりあいは激しいものでした。ぶったりけったりは当たり前で、終わると着物のそでがちぎれ、はかまは破れ、傷だらけ、こぶだらけというのが普通だったそうです。今では考えられない遊びですね。
【現在の致道館】
