鶴岡公園を歩いていると、あちらこちらに郷土の歴史に名前を残す人々の胸像や顕彰碑といった石碑が見受けられます。石碑めぐりとあわせて、先人先覚の資料を展示している「大宝館」も、ぜひご一緒に見学してみてください。先人達の足跡を学ぶにつれ、普段は何気なく見ていた石碑ひとつひとつに格別の思いがわいてきます。このほか園内には、お城があった当時にどんな場所であったかを示す案内なども各所にあり、探して歩くのも散策の楽しみのひとつです。
鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい)は、流れるような文体と爽やかな読後感で、今なお多くの人々の共感をよぶ 時代小説の第一人者。氏の作品の題材には、鶴岡の風景や食べ物などが数多く登場し、その原風景を求めて全国から多くの人が訪れています。こうした原風景の道しるべとして、市内18か所に案内標柱(案内板)を設置しています。その1つが鶴岡公園南側、護国神社とお堀を背景に設置されており、鶴ヶ岡城が舞台となった「花のあと」(文春文庫)の一節とともに紹介されています。
高山樗牛(たかやま・ちょぎゅう)は、明治時代に文芸界で多彩な活動をした偉大な文学者。歴史小説「滝口入道」で注目を浴びました。胸像とともに「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」と刻まれた文学碑が建てられています。「高山樗牛生誕の間」が大宝館に移築復元され一般公開されています。
●吾人はすべからく現代を超越せざるべからず 目先のことにとらわれず、こころざしに向かって努力し、立派な人となって今の世の中以上のすばらしい社会をつくろうという意味。
「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ。」と、数多くの発明を残した斎藤外市(さいとう・といち)。内堀を眺めるように外市の胸像が建っています。
数多くの発明の中でも、中心となった織物機械(織機)は、鶴岡織物の発展に大きく貢献しました。このほかにも飛行船、飛行機など、その発明は、高く評価されています。
荘内神社参道わきに庄内柿の祖といわれる酒井調良(さかい・ちょうりょう)の胸像があります。廃藩後、松ヶ岡の開墾に力をつくし、タネなし柿(平核無柿)の苗木の普及、渋ヌキ方法の研究など、現在の庄内柿の礎をきづきました。冬になると雪よけの頭巾をかぶった調良像が見受けられます。
内蔵器官のレントゲン診断という新しい領域を開き、日本の医学史上 偉大な功績を残した林信雄(はやし・のぶお)。放射線に侵され、自らの両手の指、さらには左腕を失いながらも研究を続けました。昭和38年、林博士の業績を讃え、胸像建立の話が持ち上がりましたが、地位にも名声にも全く無欲の博士は謙遜して受け入れませんでした。その代わりとして表彰記念に庄内人の著書を集めて博士に贈りましたが、博士は青少年の育成に役立ててもらいたいと、自らの蔵書と著書を、あらためて鶴岡市に寄贈。鶴岡市立図書館内に「林博士表彰記念文庫」がつくられ、この碑が記念に建てられました。
漢詩の研究では、日本一といわれた土屋竹雨(つちや・ちくう)。世界平和の祈りをこめた「原爆行」、「水爆行」などの作品は、英語にも訳され、世界各地の人々に深い感銘を与えました。荘内神社参道わきに立つ詩碑は、昭和45年11月5日、竹雨の十三回忌に彼を尊敬する人々によって建てられたもので、竹雨の望郷の詩が刻まれています。
やすらぎ広場に建立されている ひときわ眼をひく阿部武雄(あべ・たけお)顕彰碑。旅役者の子として湯野浜に生まれ、幼くして両親を亡くした武雄は、苦労を重ねながら音楽を学びました。昭和9年には流行歌「国境の町」を作曲。東海林太郎が歌って一世を風びし脚光を浴びました。その後も「むらさき小唄」や「流転」、「裏町人生」など数多くの名曲を世に送り出し、戦前の歌謡界に大きな足跡を残しました。
平成16年2月に87歳で亡くなられた旧庄内藩主酒井家第17代当主・故酒井忠明(さかい・ただあきら)氏(鶴岡市名誉市民)の歌碑。平成15年の宮中歌会始で召人として詠進された「今もなほ殿と呼ばるることありてこの城下町にわれ老いにけり」のお歌が碑文として刻まれています。忠明氏は、文化・芸術に造けいが深く、歌人や書家、写真家など多才ぶりでも知られ、「殿様」を偲ぶ市民有志によって建立されました。