丸岡地区にある天澤寺・丸岡城跡は、戦国時代の勇将・加藤清正公・忠廣公ゆかりの地として知られています。
清正公亡き後、嫡子・忠廣公は、徳川幕府からいわれなき罪をかぶせられ、江戸から直ちに出羽国庄内の丸岡に配流になりました。 丸岡の地は、400数十年の間、鎌倉武士の流れをくむ武藤家の支城として栄えていましたが、徳川時代になると天領となりました。加藤家の改易に際しては、藩主忠廣公は生母・正応院、それにわずかの家士達と堪忍分1万石を与えられたのみで、それから20有余年、南国熊本を遠く離れたこの地で、わびしい生活を送り、生涯を閉じました。
忠廣公が配流となった際、忠廣母子は、父君 清正公の尊骨を熊本から庄内丸岡に保持し、菩提を弔って、身をもって保護し奉ったと言われています。
遺骨の移動が公儀に知れ、詮議されたときのために2段構えの方策が取られ、公の墓所を清正閣とし、実際には忠廣館の奥庭に埋葬して大磐石をおいて隠匿したとされ、地元の人々はこの大磐石を太夫石、寄り添う石を巫女石(正応院を埋葬した場所と言われる)と呼んでいます。
配所での平和な生活が12年流れた天保3年(1646年)に丸岡大火がおこり、忠廣館も天澤寺も全焼しました。この後、忠廣公は復興が進まない荒涼とした館跡を見て、清正公尊骨を天澤寺世代墓地に移し、ほとぼりがさめるのを待って五輪塔を建立し、供養したと伝えられています。
昭和24年9月に遺跡の発掘調査が行われ、清正閣地下から鎧1領*が出土しました。
同年12月には五輪塔も発掘され、地下から1個の蓋なし壺が発見され、人骨と思われるものが付着していました。五輪塔地輪左側には「正保4年12月3日、清地院居士敬白」の刻字が石刷で明らかにされ、後日鑑定された壺は、九州肥前弓野焼の壺と判明しています。
その後、現在まで、熊本からも多くの人たちが天澤寺を訪れ、五輪塔に手を合わせています。
* …桃山時代の最上胴丸と呼ばれる素懸威黒塗横矧五枚胴具足で、丸岡小林庄兵衛家所蔵の清正公兜と伝えられる総覆輪三十二間筋兜一対と鑑定された。