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加藤家ゆかりの地

丸岡地区にある天澤寺・丸岡城跡は、戦国時代の勇将・加藤清正公・忠廣公ゆかりの地として知られています。

加藤清正公 加藤清正 (かとう きよまさ1562〜1611)
肥後守熊本54万石の大名 清正公は、知・仁・勇の三徳兼備の名将として知られ、江戸時代の儒学者頼山陽をして「勇猛は夜叉の如く、慈悲は菩薩の如し」と絶賛させています。文禄、慶長の役の軍陣に臨んでは、鬼上官の雷鳴を鶏林八道に轟かせ、虎退治の有名をはせました。また、大阪城・名古屋城・熊本城の日本三大名城を築城し、清正石垣と呼ばれる構築法は、天守閣のみならず治水・干拓・開墾事業にいかされ、400年の星霜にも微動だにしない技術を示し残しました。今日、武運長久・商売繁盛・治水土木の神様と信仰される由縁です。
 
 

なぜ丸岡へ

丸岡城址のお堀の写真

清正公亡き後、嫡子・忠廣公は、徳川幕府からいわれなき罪をかぶせられ、江戸から直ちに出羽国庄内の丸岡に配流になりました。 丸岡の地は、400数十年の間、鎌倉武士の流れをくむ武藤家の支城として栄えていましたが、徳川時代になると天領となりました。加藤家の改易に際しては、藩主忠廣公は生母・正応院、それにわずかの家士達と堪忍分1万石を与えられたのみで、それから20有余年、南国熊本を遠く離れたこの地で、わびしい生活を送り、生涯を閉じました。

 

尊骨が熊本から庄内丸岡へ?

清正閣の写真

忠廣公が配流となった際、忠廣母子は、父君 清正公の尊骨を熊本から庄内丸岡に保持し、菩提を弔って、身をもって保護し奉ったと言われています。

巫女石と太夫石の写真

遺骨の移動が公儀に知れ、詮議されたときのために2段構えの方策が取られ、公の墓所を清正閣とし、実際には忠廣館の奥庭に埋葬して大磐石をおいて隠匿したとされ、地元の人々はこの大磐石を太夫石、寄り添う石を巫女石(正応院を埋葬した場所と言われる)と呼んでいます。
 

配所での平和な生活が12年流れた天保3年(1646年)に丸岡大火がおこり、忠廣館も天澤寺も全焼しました。この後、忠廣公は復興が進まない荒涼とした館跡を見て、清正公尊骨を天澤寺世代墓地に移し、ほとぼりがさめるのを待って五輪塔を建立し、供養したと伝えられています。

 

遺跡を発掘調査

総覆輪三十二間筋兜の写真

昭和24年9月に遺跡の発掘調査が行われ、清正閣地下から鎧1領*が出土しました。

遺骨壺の写真

同年12月には五輪塔も発掘され、地下から1個の蓋なし壺が発見され、人骨と思われるものが付着していました。五輪塔地輪左側には「正保4年12月3日、清地院居士敬白」の刻字が石刷で明らかにされ、後日鑑定された壺は、九州肥前弓野焼の壺と判明しています。
 

その後、現在まで、熊本からも多くの人たちが天澤寺を訪れ、五輪塔に手を合わせています。

 

* …桃山時代の最上胴丸と呼ばれる素懸威黒塗横矧五枚胴具足で、丸岡小林庄兵衛家所蔵の清正公兜と伝えられる総覆輪三十二間筋兜一対と鑑定された。

天澤寺の写真  
お問い合わせ
 
●加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会
  櫛引公民館内 山形県鶴岡市上山添字文栄90
  電話 0235-57-2111(代表) 0235-57-5670(直通)
 
●天澤寺
  山形県鶴岡市丸岡字町の内36
  電話 0235-57-2252