(鶴岡地区)旅役者の子として湯野浜に生まれ、幼くして両親を亡くした武雄は、苦労を重ねながら音楽を学びました。昭和9年には流行歌「国境の町」を作曲。東海林太郎が歌って一世を風びし脚光を浴びました。その後も「むらさき小唄」や「流転」、「裏町人生」など数多くの名曲を世に送り出し、戦前の歌謡界に大きな足跡を残しました。(昭和61年建立)
(鶴岡地区)03年6月、映画のロケ地になったことと、藤沢・山田両氏への感謝を後世に伝えようと、由豆佐売神社参道入り口に建立された記念碑。横約1.5m、縦約90cmのステンレス製の板に、「藤沢周平先生の温籍に捧ぐ」と題した富塚陽一鶴岡市長の文章を刻んだ銅板と、エキストラ出演した地区民約50人の集合写真が埋め込んであります。
(鶴岡地区)3日間、長山邸に滞在した松尾芭蕉は、屋敷近くにある内川・大泉橋のたもとにある船着き場から川船に乗り、内川・赤川・最上川と下り酒田に赴いたと言われています。
(温海地区)天下無敵を誇った江戸相撲の大関・雷電為右衛門を二度負かした唯一の力士が、当温海温泉出身の花頂山です。
(櫛引地区)寛永9年(1632年)6月1日熊本城主加藤肥後守忠広公は幕府の忌諱に触れ領地52万石を没収せられて庄内藩守酒井忠勝公に預けられ丸岡一万石に移封された。在住22年承応2年(1653年)当地に没したが、その2年前の慶安2年には母堂即ち、父清正公の御正室も当地に於いて逝去された。その後父清正公のお骨も丸岡に埋葬されていることが伝えられて来たが、昭和24年12月天澤寺境内の五輪塔の下見調査の結果肥後の国弓野焼の壷に納っている御骨を発見した。
山形県指定史跡(昭和38年)
(温海地区)昭和19年8月18日、温海温泉に江戸川区小岩地区の国民学校6校から学童1391人と付き添いの職員87人、医師3人が戦火を逃れ疎開してきました。温海温泉では21の旅館が客室を開放し、住まいと教室として提供しました。
(鶴岡地区)「発明は俺の命だ。俺のひとつの病気だ。」と、数多くの発明を残した斎藤外市。鶴岡公園の内堀を眺めるように外市の胸像が建っています。(昭和49年建立)
(鶴岡地区)旧庄内藩主酒井家第17代当主・故酒井忠明氏(鶴岡市名誉市民)を偲ぶ市民有志によって建立された歌碑。平成15年の宮中歌会始で召人として詠進された「今もなほ殿と呼ばるることありてこの城下町にわれ老いにけり」のお歌が碑文として刻まれています。(平成17年建立)
(鶴岡地区)荘内神社参道わきに庄内柿の祖といわれる酒井調良。廃藩後、松ヶ岡の開墾に力をつくし、タネなし柿(平核無柿)の苗木の普及、渋ヌキ方法の研究など、現在の庄内柿の礎をきづきました。冬になると雪よけの頭巾をかぶった調良像が見受けられます。(昭和51年建立)
(鶴岡地区)庄内藩校致道館跡