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9.明治以後の藩学・・・「沈潜の風」

(1) 松ヶ岡開墾

松ヶ岡から見た月山

戊辰戦争終結後、維新の改革が次々と打ち出される中で、士族たちは職と禄とを失い、受難の時を過ごすことになりますが、この対策として考えられたのが、月山の麓に広がる原生林の開墾でした。蚕糸業を興して国に報じ、新しい国づくりのさきがけになろうというのです。

すき間なく生えた潅木や大木を相手に、満足な道具とてない困難な作業でしたが、3千名の士族たちは果敢に挑戦し、明治5年(1872)から翌年にかけて、みごとに311ヘクタールの開拓に成功します。そして、「松ヶ岡」と名づけられたこの地に、桑の苗を植え茶の種をまきつけたのです。これは、当時の輸出品の双璧が生糸と茶だったからでした。ここまで見届けた大部分の士族たちは、もはや我が事終れりとして、この地へ移住を申し出た30名の同志に後事を託し、自らの生計の途を求めて各地へ散って行きました。このあたりがよその殖産事業と大きく違うところですが、こうして始まった松ヶ岡の事業は、やがて蚕種・養蚕・製糸・機業へと発展し、その後さらに金融・倉庫・運輸その他へと幅広い展開を見せて今日に至りました。

現在、松ヶ岡には子孫63戸が定住し、大正初期に取り入れた稲作と、昭和初期から始めた庄内柿栽培を中心として農業に励んでおりますし、史跡「松ヶ岡開墾場」として国の指定を受け、開墾記念館・庄内の米づくり用具収蔵庫などを公開しております。

また、この事業を計画推進した酒田県権大参事の菅実秀(すげ・さねひで)は、庄内藩最後の中老として、維新の戦後処理や士族たちの生活の確保・安定のために敏腕を振るわれた人ですが、この菅と、これを激励支援した維新の指導者・西郷隆盛の心交は、明治22年(1889)の「南洲翁遺訓」の発刊につながり、昭和44年(1969)の鶴岡市と鹿児島市の兄弟都市盟約に実を結んでいます(致道博物館・旧西田川郡役所1階に資料展示あり)。

 

(2) 藩学の継承

さて、地元に残った士族たちは、生活に落ち着きをとりもどす中で、いつのころからか、旧藩主酒井家の学問所「文会堂」で開かれる「お寄り合い」とか「お書物の会」とか呼ばれる勉強会に集まるようになります。当初のことはよく分かりませんが、菅原兵治著「教の國荘内」(昭和14年素行会発行)に拠って、昭和13年(1938)当時の様子を見てみましょう。

まず勉強の内容ですが、「御寄合一覧表」に、孝経・詩経・書経・大学・中庸・国語・論語・「南洲翁遺訓」・「臥牛(がぎゅう)先生遺教」などの名が見えます。「南洲翁」は西郷隆盛のこと、「臥牛」は前述の菅実秀のことで、庄内では「ご遺訓」「ご遺教」と称して、経書同様大事に扱います。これは、庄内の大きな特色と思います。そして、これらをテキストに、例えば旧藩主や幹部たちは書経、嗣子は中庸、各事業所の幹部は論語、倉庫の人たちは何、製糸場の人たちはこれ、運送店の人はあれというように、計画的に学ぶわけです。また、旧制中学の生徒たちは、学年によって甲乙丙の少年会に分かれ、孝経・論語抄・ご遺訓を学ぶというふうに、月約50回に及ぶお寄り合いが開かれて、約1時間のこの会のために、遠くの職場からも熱心に通ってきていたようです。

勉強の仕方もずい分特徴的だったようです。いつ、誰が、何を講義するかが決まりますと、講師全員が集まって徹底的に教材を考究し、これでよしとなったところである方を訪ね、改めて、その観閲とご指導を仰ぐのです。この方を「お年寄り」といい、その時代に一人という定めですから、庄内における教学の最高の師というわけで、その意見はまことに権威があり、旧藩主や嗣子といえども、教えを乞う場合は私宅へ足を運んだといわれております。

こうして、いよいよ講義の日となりますが、机はありませんので、畳の上に本を広げ、両手をつく形で聴講します。 講義はまず「読み」から始まります。一言一言力強く確実に読みますが、独特の抑揚をもっていますので、謡曲の調べを思わせると評するむきもあります。また、調子とは別に、読みそのものが少し違っております。例えば、私どもは「学んで時にこれを習うまた説ばしからずや」と教わってきましたが、庄内では「学んで而うしてこれを時習すまた説ばしからずや」となるわけです。これは、徂徠学の読み方だろうと思われますが、こういう読み方で書かれた「庄内論語」が刊行されております。

「読み」の次は「講義」となります。その中味は、お年寄りにご指導頂いた通りとなりますが、徂徠学を基盤とはしても、そのままではなく、他の学説でも、良い所は広く師とし友とする立場で、いろいろ採り入れて行われたようです。

最後は「風味」の段階です。これは、講義の内容を自分の身に当てはめて考える、実行的に吟味するということです。私は銀行員だ、今日教わったことを職場で実行するには、どうすればいいのだろうかと考えるわけです。納得できればよし、落ち着かなければ講師の助言を仰ぎ、必ず実践につなげるわけです。庄内では、訓詁注釈に流れて空理空論に陥ることを嫌い、生活の実際に役立つ実学、活学でなければならないと言います。これは、行わなければ本当に知ったことにはならないのだという考え方からくるわけです。

なお、講義には控えの講師が付き添ってチェックし、おかしい所は、終了後に講師たちで話し合い、物によっては、またお年寄りのご指導を仰いで、次回で必ず訂正したといいます。

また、事業所の幹部クラスには「切磋(せっさ)の会」というのがあったそうです。数名から十数名の集まりで、思うところを率直に話し合い、切磋し合う会でした。「君のあの行動はどの教えによったものか」「それはこれこれの教えだ」「その教えの本旨はそうではない。君の行動は誤りだ」「しかし、こう考えることもできるのではないか」など、ずい分厳しい話し合いだったようですが、トップのあり方は企業の成否にかかわるのですから真剣で、互いに納得できればよし、双方譲らなければお年寄りのご指導を仰いだといいます。

 

(3) 徂徠学から庄内学へ

御隠殿(致道博物館)の写真

明治の政治家であり漢学者でもあった副島種臣(そえじまたねおみ)は、明治24年(1891)酒井家のご隠殿(ごいんでん:隠居された前藩主の住居の意)で詩経を講じました。翌年もまた庄内を訪れていますので、どちらの機会かはっきりしませんが、「庄内は既に徂徠学を抜け出て庄内学です」と言われたそうです。

また、日本農士学校の検校(けんぎょう:校長)で、後に酒井家の招きで庄内へ移られ、東北農家研究所を設立して、多くの人材育成に尽くされた菅原兵治(ひょうじ)先生も、「この地の学道は庄内学というべきであろう」と評されたと言います。

以来、この「庄内学」という表現は、関係者間では普通に使われて今日に至ったと聞きます。なぜ「庄内徂徠学」と称しなかったのか気になるところですが、いずれにしても、旧士族やその子孫たち関係者の、学問に対する態度や、独特の学び方などに関わっての呼称であることは、間違いないところだと思っております。

また副島種臣は、これとは別に、庄内人の気風を指して「沈潜の風」と評したと聞きます。常には静かに地道に力を養い、いざという時にはそれを大いに発揮するの意かと思われますが、知人がもっと分かりやすく書いておりますので紹介します。

「・・・・・・『花よりも根を養う』が庄内に住む人々の生き方だという。目立って華やかな、時の間の匂いよりも、じっくりと根をはり、内なる力を静かに充実させて、より豊かに実を結ばせるその堅実さこそが、郷風なのだと。じっと海に糸を垂れて動かない、その時間の緊迫した内なる充足、釣りを単なる遊びにしなかった精神風土が、庄内の文化であることを見てから、表向きの活動とは違った『沈潜する活力』を思うようになった。・・・・・・」

 

(4) 現代に受け継がれる伝統

講堂の屋根と梅の花の写真

先の大戦中は、文会堂などに集まっての勉強会はできませんでしたし、戦後の混乱期もそういう余裕はありませんでしたが、世の中が落ち着くにつれて、講師の出張講義という形で勉強会が始まりました。

以来、その時々の移り変わりを経て、ことしの庄内には、中庸・孟子・論語・書経の各講座、詩経会、人間学講座、郷学研修会、少年少女古典素読教室、西郷・菅両先生を偲ぶの会、小・中学生の素読会、「庄内論語一日一題カレンダー」作製などの民間活動が見られ、今もなお藩学の伝統が、静かにそして確かに受け継がれていることを感じます。

先年、当市で開かれた「全国城下町シンポジウム」に際し、「城が残っているから城下町なのではなく、城下町としての誇りが人々の心の中にそびえ立っているからこそ城下町なのだ」「泰然とした武士の心意気がその土地にしみ込み、数百年たった今もなお、そこに暮らす私たち一人ひとりの心に伝わってくるのだ」などと、城下町への真情を吐露した多くの高校生たち。庄内藩学の流れは、こういう若い人々に引き継がれて、これからも脈々と続いていくに違いありません。

 

おわり

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