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6.学校行事

(1)釈奠(せきてん)

聖廟の写真

釈奠は、聖廟に先聖として孔子、先師として顔回を祭る儀式のことで、このごろは孔子祭と呼ぶところもあるようです。礼譲が整ってこそ初めて国政が挙がる、そのためには、釈奠を古来のしきたりに従って正しく行わねばならぬとして、学校行事の中でも特に重視されました。

学校を建設する際、釈奠の中心となる聖廟をどのようなものにするかは大きな問題でしたが、調査検討の結果、中国式の寄せ棟造りと決まり、柱は全て円柱という主屋を廟門と透塀で囲った、風格のある聖廟が完成したのです。

釈奠は、戊辰戦争中の8月は休みましたが、その他はしきたり通り2月と8月に欠かさず執り行われました。

 

(2)詩文会

桜咲く致道館の写真

詩文会は、終日詰(中学校)以上の生徒と全職員が参加し、正月に与えられる課題の中から自由に題を選んで詩文を作り、桜が満開のころに発表し合う会で、「花の宴」とも呼ばれました。

作詩・作文の向上に役立つばかりでなく、優秀な作品は吟誦して称賛されるため、皆はりきって参加し大いに盛り上がりました。終わった後は宴に移り、酒を酌み交わしながら、夜遅くまで語り合う楽しみもあって、みんなが心待ちにしている会だったようです。

ちなみに、明治5年(1872)の課題は次の通りでした。
「憶行」「春夜下牧水」「養士論」「疇昔篇(ちゅうせきへん)」「記楠正成守千早城事」「雨後野望」「送松本開拓判官赴任根室序」

その博学多彩ぶりから、地元では「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称される松森胤保(まつもりたねやす)の約700冊を筆頭に、松本十郎の約200冊など、致道館に学んだ多くの人々が、数多い稿本を残しているのはなぜだろうとよく言われます。確かなことはむろん分かりませんが、おっくうがらずに物を書くことをしつけたのが、毎日の学業を記録する「日業記」であることは間違いないように思われますし、月々課されていた数題の詩文や詩文会の影響もあるのではと思っています。

区切り

松森胤保 (まつもりたねやす)

科学者
文政8年(1825)〜明治25年(1982)
幼名欣之助、通称嘉世右エ門。胤保は晩年の号である。

庄内藩士の子として鶴岡に生まれ、致道館に学ぶ。
庄内藩の支藩である松山藩の付家老として幕末混乱期の藩政を処理し、戊辰戦争の功により藩主より松守(松山を守るの意)の姓を賜ったが、辞して松森とした。
以後十数年、同地方の公職にあって政治・文化面で貢献し、一時は県会議員も勤めた。
勤めのあい間に、動植物学・物理学・化学・工学・歴史学のほか考古学等に至るまで調査研究に励み、特に公職を引退してからはこれに没頭、著書700冊に及ぶという。
代表作「両羽博物図譜」59冊は、その分類法において近代のそれに迫るものがあり、その研究は実証的な傾向をもつ優れたもので、県の有形文化財に指定されている。
博識多才で、百科全書的な才人だったが68歳で死去。鶴岡市内の禅源寺に大きな墓碑がある。

区切り

松本十郎 (まつもとじゅうろう)

政治家
天保10年(1839)〜大正5年(1916)

鶴岡に生まれ、旧姓名を戸田總十郎といい、致道館に学ぶ。
文久3年から慶応元年まで、父に従い蝦夷地警備についた。
戊辰戦争では幕僚、機事係(他藩との交渉役)として活躍した。庄内藩の降伏後、松本十郎と名を変えて上京し、藩の戦後処理に奔走。新政府の要人と交友を深め、折衝に当たった。
1869年、黒田清隆の推薦で北海道開拓判官として北海道に渡り、漁場を開発し、北海道最初の灯台を建設、また原野の開拓に力を尽くした。アイヌの信頼を得て「アツシ判官」(アイヌの用いる衣服を着用したことから)と慕われた。
アイヌの人権を守るため、時の政府と争い、38歳にして職を辞し鶴岡に帰った。
以後、晴耕雨読の生活をし、隠棲の時を過ごした。庄内各地の多くの碑文の選者になっている。78歳で死去し、鶴岡の安国寺に葬られた。

 
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