学校の休みは、毎月3の日と8の日(3日、8日、13日、18日、23日、28日)でした。終日詰(中学校)以上の生徒たちは、心身を鍛えるために野山へ出かけ、竿の先に鳥もちをつけて小鳥を捕える「鳥刺し」を競い、月に一度は、槍か鉄砲を肩にして24時間歩き通す「遠足」をしました。
また、庄内藩では心身鍛練の一助として、藩士一般に磯釣りを奨励しましたので、暇をみつけては、何本かの釣り竿を肩に、日本海まで片道十数キロを物ともせずに通いつめ、釣果を問うのに「今日の勝負はいかがでしたか」と言い合ったといいます。
当時の名竿が「庄内竿」として今に伝えられておりますが、その呼称は次の5条件を充たすもののみに与えられるもので、「名竿は名刀より得難し」とまで言われたと聞きます。
なお庄内は、こうした独特の釣り文化を持ち、日本最古といわれる天保10年(1839)の魚拓が残っている土地がらです。 >> 鶴岡 磯釣り今昔
学校には、武術稽古場が2つ、矢場が2つ、馬場が1つあって、外舎(高校)以上になると剣術・柔術・槍術・弓術・馬術の稽古をしました。1の日の午前は何、4の日の午後は何というふうに日割りが決められ、外部から専門の先生が来て指導に当たりました。
ここで紹介するのがふさわしいか迷いますが、句読所(小学校)には、今では考えられないすごい遊びで「王取り」というのがあったそうです。2つの陣地に分かれ、くるくる巻いたむしろの中に隠してある、相手チームの「王」を早く奪った方が勝ちというのですが、「王」とはどんなものなのか、ただ「紙捻(ひね)り」と書いてあるだけですからよく分かりません。そのむしろを取り囲んで「王」をガードしている下級生たちと、攻撃してくる相手チームの上級生たちが烈しくぶつかり合うわけですが、ルールは目に指を入れてはだめ、かみついてはだめというだけですからたまりません。打ったり蹴ったりは当たり前というわけで、終わると着物は破れ、袖はちぎれ、はかまは裂け、顔ははれ、鼻血を流し、傷だらけ、こぶだらけの見るもむざんな姿だったといいます。