

江戸時代の初め、山形の大名最上氏が内紛によって失脚した後、山形県のほぼ全域にわたったその領地は四分され、元和8年(1622)庄内13万8千石を領したのは、徳川四天王といわれた酒井左衛門尉(さえもんのじょう)家の三代目忠勝でした。以来一度の転封もなく、幕末まで約250年の間、酒井家の治世が続きます。
その九代藩主に忠徳という方がおりました。数えの13歳で藩主となって、約40年間その座にあった方ですが、元禄以来の累積負債が約10万両という藩財政の逼迫、農村の荒廃、農民たちの貧窮など、多くの問題を抱える中で、とくに頭を悩ましたのが、18世紀末の天明から寛政にかけて出てきた士風の乱れということでした。文武の道を忘れて華美におぼれ、軽薄にして浮華の風が広がり、横暴無頼の徒が横行し、私腹を肥やす役人まで出るほどだったといいます。
これを憂えた忠徳は、ある時、郡代(農政と財政の責任者)の白井矢太夫を呼んで意見を求めました。考え深く、優れた学者でもあった白井は、「これは穏やかな世が長く続いて、人々の心が柔弱になり、廉恥(れんち)の気持ちが薄れたからで、急には直らないと思います。回り道のように思われるかも知れませんが、学校を建てて教育をするしか道はありません。それによって、さきざき、人々が恥を知るようになれば、風紀の乱れは自ずと改まります。」と答えました。

忠徳は白井矢太夫の言を聞いてなるほどと思い、早く学校を作ろうと決意するのですが、財政が火の車ですからすぐにはどうにもなりません。機会をうかがっておりますうち、この白井が中心となって実施した農政改革のおかげで、農民たちの生活が少し楽になり、藩財政がだんだん落ち着いてきたのを受けて、寛政12年(1800)幕府の許しを得、漸く建設に取りかかりました。
しかし、何もかも初めての経験ですから大変です。まず、城の東方20分ほどの所に敷地を定め、先進校である岡山藩学校から絵図面を借りるなどして建設にとりかかる一方、鳥海山麓に学校運営費を生み出すための水田約50ヘクタールを開拓したり(現在の飽海郡遊佐町白井新田)、また少し後のことになりますが、学校経営のありかたを学ぶため、米沢藩学校(のちの興譲館)に藩士1名を遊学させるなど、皆の知恵を集め、力を合わせて取り組んだ大事業でした。
こうして、5年経った文化2年(1805)校舎が完成したところで、論語の中の「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス※」から「致道館」と命名し、白井矢太夫を祭酒(校長)に選び、2月の晦日(みそか)、聖廟(せいびょう)に先聖として孔子、先師として顔回を祭る儀式、第一回の釈奠(せきてん)を盛大に行って、内外に開校を宣言したのです。
※君子は学問をすることによって、その道をきわめるの意。

忠徳は致道館の完成を喜び、大きな期待を寄せていましたが、その年の秋、病いにかかり、後を子の忠器(ただかた)に譲って隠居しました。
十代藩主忠器はまだ若年でしたが、次第に「政教一致」を考えるようになりました。これは「政治上の根本となる考えや具体策を産み出すのは学問の力だ、学問を修めるところは学校だから、会所(藩の政庁)と学校は一所にあるのが至当だ」という考えです。
そのためには、致道館を城内に移さなければなりませんが、時節柄事はそう簡単には進みません。結局、開校後11年経った文化13年(1816)、漸く三の丸の現在地に移転し、参勤年は2日おきに、講堂や御入間(おいりのま)が会所として使用されることになり、諸役人詰所や御勘定所などが新設されました。
また、移転を機会に改めて学校の施設全体を見直すことになり、熊本藩の時習館、鹿児島藩の造士館、萩藩の明倫館などのほか、中国明代の学宮やローマの学校まで参考にし、それまでの聖廟、御入座敷、講堂、養老堂、書蔵、稽古所などに加えて、教場、会業の間、宿泊生の個室などが数多く設けられ、能力別等級制に対応する体制が一段と整備されました。