
国際日本文化研究センター所長 河合隼雄氏
臨床心理学者、心理療法家。
昭和27年京都大学理学部卒業。昭和37年から40年までスイスのユング研究所に留学され、日本人初のユング派精神分析家の資格を取得。わが国の臨床心理学と心理療法に画期的な新展望を開いた。著作・論文多数。専門分野をこえて多くの研究者や文化人に影響を与えるとともに、一般の人々にも共感の輪を広げている。
最近、鶴岡市を訪れ、文化に関心の高い鶴岡市長さんのはからいで、史跡の庄内藩校「致道館」を見学することができた。市長さんが自慢にされるだけあって、実に立派なものだが、ここにはその時に特に印象に残ったことについて述べる。
致道館では庄内藩の子弟が学問をするのだが、その趣意書(被仰出書)を見ると、人間には「天性、得手不得手」がある。そして「天性の大なる者は大成し、小なるものは小成」するので、個々人の天性を見抜いて指導することが大切だと書いてある。
これを見て、「アレッ」と思ったのは、今、日本の教育界で大切な課題となっている「個性の尊重」ということが思い浮かんだからである。
そのときにいただいた、社団法人荘内文化財保存会「史跡庄内藩校 致道館」を帰宅後に読むと、次のようなことがわかった。入学する者は士分以上の子弟だが、それ以下の者でも能力ある者は特に入学させる。入学後は成績次第で年齢に関係なく進級させる(これはトビ級ではないか!)。
それに次のようなこともある。入学したての少年たちの指導者に対する注意として、「学校の儀は、少年輩の遊び所」だから、「何事も寛大に取り扱い」、子どもたちが退屈しないように「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力するべきである、というのである。これは個性を伸ばそうとする初等教育の方法として最高のことではないだろうか。
上級者はどうなるのだろう。最上級生は「舎生(しゃせい)」と呼ばれ、今日の大学院に相当するだろう。このような生徒(と言っても立派な成人である)は、一人一室を与えられ、「完全な自発学修である。すべての雑用から離れ各室において修学に専念」し、質問があるときのみ指導者に教えを乞うシステムであった。面白いのは、宿泊希望者は「勝手次第」というところ。強制的でないところがよい。学風は荻生徂徠の教えによっているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押し付けることのないように注意した。教えるにしても「人ニ教ヘラレタル理屈ハ皆ツケヤキバナリ」と心得て、教えすぎにならぬようにしなくてはならない。「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ彼ヲ益スルコトニハナラヌコトナリ」。こんなものを読むと、日本の教授は自説を「売ラントスル念」が強すぎないか、反省すべきであるとも思う。ともかく、致道館の教育方針は、現代の大学院においても理想的と言っていいだろう。
第十五期の中央教育審議会(私もその委員の一人だが)では、「トビ級」の可能性が論じられたが、おそらく国民全体の承認を得られないだろうということで見送りとなった。欧米では「トビ級」などは普通に行われているのは周知のことである。欧米の個人主義の考え方からすると、個人に能力差はあるのが当然で、個人の能力に応じた指導をするのがよいと考える。
日本人は、その点、「平等感」が非常に強い。個人の能力差を認めるのに強い抵抗感を抱く。中教審が今度、十七歳でも大学入学の可能性をひらく答申をしたが、−こんなことは欧米では当然至極のこと−、それに対する反発も強い。
ところで、ここに紹介した致道館の教育方針はどうだろう。トビ級など平気で認めているのだ。日本人は明治以前は、個性教育をしていたのだろうか。
ここで考えねばならぬことは、致道館で言われる「天性」と、欧米人の言う「個性」は同じものか、かつて、これほど能力差を肯定していた日本人がなぜ、絶対平等主義になったのかの二点である。これは時間をかけてじっくり考えるべき問題である。
平成9年9月10日付京都新聞より、連載記事「平成おとぎ話」第26回を全文掲載させていただきました。
掲載をご快諾いただいた河合先生と京都新聞に、心より御礼を申し上げます。